あなたがよければ、六日の朝に

ひねもすのたり、のたりかな。なんでもない今日を、唄うように、踊るように生きると決めた。

奇を衒った日本語



こんばんは、六日です。





中国語には、日本語には比べられないほど多くの汚い言葉、悪口、罵り言葉、などなどが存在するのだとか。

逆に言えば、日本語にはそういった類の言葉がほとんど存在しないらしい。
日本語での罵り言葉というのは、たとえば中国人からすると「なまぬるい」というか「そんなの罵るうちに入らない」そんな具合らしいのです。

中国語にあるはてしない自由さと、日本語の秩序ある品行方正さ。


スラング、とは言わないまでも、乱雑な言葉というのは、どうも「使っていい人」が限定されるように思う。
その人がそれまで培ってきたセンスなのか、キャラなのか。年齢ではないことは確か。


幼いころからわたしは、同じ年代くらいの友人たちのくだけた喋り方や自由奔放で軽い言葉遣いに馴染めずに、ずっとどこか憧れすらいだいていたようなところがある。

乱雑な言葉をネイティヴのごとく操ってみせる人を前にすると「そ、そんな言い方、するんだ」という驚きと共に、何にも縛られない自由さを感じるのだ。
発音しようと思えばできるけれど、今まで生きてきてわたしは、その言葉を舌に乗せたことがない、という事実。



多くの人がそうであるように、耳に心地よい日本語が好きであるし、大人と呼ばれる年になればなおさら。清く正しい言葉遣いというのは、いつだって信頼に繋がる。

けれど1年に何回か、狭い檻から抜け出すように、乱雑な言葉を使いたくなる気分になる時というのがあり。

といっても、他者に向けられるような言葉はもちろん、いただけない。ただ単体でひとりつぶやくようなものに限り。
例をあげるならば、一にも二にも「ちきしょう」など。もちろん、このわたしが感情を込めてそう言ったところで、悲しいかなどこか間の抜けたコントのような雰囲気さえ漂ってしまう。

それでも誰かにそれを聞いてほしいことがあって、気心知れた人を前に、予告なしに披露したりすることがある。ハッ、と笑われたあとに

「反抗期か。似合わねぇからやめろ」

と言われるのがオチなのだけれど。

けれど、相手が「鳩が豆鉄砲をくらった」ような顔で一瞬二瞬、時が止まる瞬間など、こっそり心の中で(そうそう、その顔が見たかったの)とほくそ笑んだりするのだ。







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